穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

いつか見たうなぎ屋の甕のたれなどを、永遠的なものの例として

〈自転車に乗りながら書いた手紙〉から大雪の交叉点の匂い

出来立てのにんにく餃子にポラロイドカメラを向けている熱帯夜

硝子粒ひかる路面にふたり立つ苺畑の見張りのように

月よりの風に吹かれるコンタクトレンズを食べた兎を抱いて

歯医者(デンティスト)にゆく朝などを、永遠に訪れないものの例として

花束のばらの茎がアスパラにそっくりでちょっとショックな、まみより

サムライが天気予報を聴きながら描いた渦巻き、天国は夏

海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか

つっぷしてまどろむまみの手の甲に蛍光ペンの「早番」ひかる

夜明け前 誰も守らぬ信号が海の手前で瞬いている

美しい指環は足の親指にぴったりでした、報告おわり。

帽子たち、まみを守ってください。と深爪姫の星夜の祈り

「十二階かんむり売り場でございます」月のあかりの屋上に出る

残酷に恋が終わって、世界ではつけまつげの需要がまたひとつ

ウエハースを海にひたして囓りつつ指名手配の魂のこと

金輪際、つぶやきながらうっとりと涙腺摘出手術を想う

昭和基地の床に散らばるトランプのキング、クイーン、その付け睫毛

ティーバッグ破れていたわ、きらきらと、みんながまみをおいてってしまう

顕微鏡で宇宙をみている者の眼にそのとき金の薔薇が映るの

天沼のひかりでこれを書いている きっとあなたはめをとじている

完璧な心の平和、ドライアイスに指をつけても平気だったよ

これ以上何かになること禁じられてる、縫いぐるみショーとは違う

甘い甘いデニッシュパンを死ぬ朝も丘にのぼってたべるのでしょう

時間望遠鏡を覗けば抱きあって目を閉じているふたりがみえる

水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として

この世界のすべてのものものは新しい名前を持っているから、まみは

手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。

「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

午前四時半の私を抱きしめてくれるドーナツショップがないの

のぞきこむだけで誰もが引き返すまみの心のみずうみのこと

リトマス試験紙くわえて抱きあえばきらきらとゆく夜の飛行機

つむってもあけてもまるでおんなじのまっくらやみで手紙を書こう

ぬいぐるみの口のなかには宝石がいっぱい詰まっている夏の朝

正午にはお部屋の鍵を回してた/午前と午後に手紙を書いた

大切なことをひとりで為し遂げにゆくときのための名前があるの

朝焼けの教会みたいに想いだす初めてピアスをあけた病院

いつもいつも双子座だけが幸福な星占いが連載される

自転車を漕ぐとき冬がはじまって目の中で雪とかしています

冬。どちらかといえば現実の地図のほうが美しいということ

男の子だったらつけられたはずの名前が書いてある消火栓

いま、まみは、踊りつかれて(あれ、みなさん静止してたんですか?)ねむるの

製氷皿に静かな氷を運びつつ 天国なんか通過する汽車

こんなにもふたりで空を見上げてる 生きてることがおいのりになる

六号室を出てゆく朝に一枚の地図が輝く南の壁に

サイダーがリモコン濡らす一瞬の遠い未来のさよならのこと

窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった

札幌局ラジオバイトの辻くんを映し続ける銀盆を抱く

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

小川洋子『琥珀のまたたき』

そんな彼の話し方が私は好きだ。どんなに顔を寄せ合っても、耳をそばだてるためだからと言い訳ができる。秘密めいて消え入りそうなこのささやきを、今聞き取っているのは自分一人だ、花壇の花びらを揺らす風もそこに隠れる蜜蜂も、誰も邪魔できないのだ、という思いに浸ることができる。(4ページ)

春の初め、ママが遅番の夜、一人庭で踊る姿だった。もうすっかり小さくなってしまったバレエシューズに無理矢理足を押し込め、長い髪を一つに結わえ、ママお手製の衣裳を身につけて、くるくるターンしたりジャンプしたりしながら庭中を動き回った。涸れた池の窪みも木々の根の盛り上がりも鼬の巣穴も、隅々まで知り尽くしている彼女は一度としてつまづいたりせず、あらゆる隙間をすり抜けることができた。以前習っていたクラシックバレエのパターンからスタートし、やがてそれを自在に変化させ、独特な動きを生み出していった。頭に黒ピンで留めた王冠がずれても、白タイツが土まみれになってもお構いなしだった。地面に爪先を立て、宙を横切り、ふわりと着地するたび、背中の羽が震えた。尻尾が木枝に触れてサワサワと音がした。茂みのあちらこちらから虫たちが飛び出し、彼女を祝福した。(12ページ)

庭の中央、枝を一杯に広げるミモザの根元でひざまずき、ポーズを取ったところでダンスは終りを迎えた。いつの間にか瑪瑙の唇も閉じられていた。二人は窓の外に手を出し、音の鳴らない拍手をした。オパールはスカートの裾を持ち上げ、本物のバレリーナと同じように恭しくお辞儀をした。(14〜15ページ)

私たちはずっと黙っている。どこの美術館でも博物館でも、アンバー氏ほど熱心に展示物を鑑賞する人に私は出会ったことがない。彼はしばしば目が不自由だと誤解されるが、本当は違う。他の誰とも異なる独自のやり方で世界を見ることができる人なのだ。今目の前にある一点だけでなく、その由来も未来も、すべてを一続きの一瞬一瞬として感じ取っている。彼の琥珀の奥でだけ、時間が本来あるべき姿で流れている。(26ページ)

ママは二階の一番広い部屋を三人の子ども部屋にした。まず殺風景な壁を飾るため、絵葉書や雑誌やポスターからお気に入りの図柄を切り抜いて、一面に貼り付けるところからはじめた。リス、お城、スズラン、フランス人形、馬車、野うさぎ、蝶々、きのこ、宝石箱……。さまざまな可愛らしいものたちで、部屋は埋め尽くされていった。ドアの周囲では数珠繋ぎになった天使たちが竪琴を爪弾き、暖炉の脇にはカテドラル、飾り戸棚の上には宮殿がそびえている。花園はあちらこちらで満開を迎え、花びらの陰から小人や牧神が顔をのぞかせ、お姫様がフキノトウのベッドで昼寝をしている。(29〜30ページ)

雪舟えま『地球の恋人たちの朝食』

2001/07/21 地球の恋人たちの朝食

10月7日
地球を旅立つ日 船内にひとつだけ持ちこめるリュックに想いでの品をつめているとナビゲーターのヴァニラウエハーが音もなくあたしの部屋に実体化した
「用意はできた?」ヴァニラウエハーがきいた
あたしが地球から持ち出す想いでの品はつぎのとおりだ
①両親・妹・黒ウサギ・桐壺の写真 ②桐壺がくれた指環 ③黒ウサギの骨壺(骨を粉末にしたもの入り) ④あたしと桐壺の愛した紅茶の葉(500グラム)

「これだけ!?」ヴァニラウエハーはとてもおどろいた
毎年 あたしのように何人かが地球を出てゆくけど だれもが地球から持ちだす品をきめられなくてたいへんだという
想いでの本 想いでのレコード 想いでのドレス 想いでのアルバム 想いでの宝石 想いでの人形 想いでの手紙 想いでの食べ物 想いでの 想いでの 想いでのうつくしいものたち
〈自分の背中の幅よりはみだしてはいけない〉決まりの 小さなリュックにつめこむ品を泣きながらえらぶとき あたしたちはこんなにも地球が可愛(かわ)ゆいものだったと思い知る

黎明のひととき あたしはヴァニラウエハーに写真をみせて家族の紹介をした 小さな骨壷をみせて むかし飼っていた黒ウサギの灰をなめさせてあげた
どんなにいい家族だったか どんなに可愛ウサギだったかを 言わずにいられなくて最高だったの最高だったのとくりかえした

さいごにヴァニラウエハーが紅茶の壜に目をとめた
「すきだったのね?」
「若いころのあたしと桐壺が大すきだった紅茶なの あたしがブレンドしたの 青い花入ってるの」
「何ていう名前?」
「地球の恋人たちの朝食っていうの」(16ページ〜17ページ)

森茉莉『甘い蜜の部屋(上)』

眼に見えている花が、硝子の壜が、卓(つくえ)が、紅茶茶碗、銀の匙、又空も、塀の上に出ている他人(ひと)の家の樹々も、小石、赤犬、又は卓子(テエブル)を距てて微笑(わら)う親しい人、すべてのこの世の現実が、ほんとうにそこにあるのか、ないのか、そこの境界が明瞭(はっきり)しない。この世界がこんなに、明瞭(はっきり)しないのだから、死んだあとの世界の方が却ってほんとうに、はっきりとあるのではないだろうか、と、そんなことを想ってどこかにある、もう一つの世界を空想してみる瞬間さえある。
その世界は、現実にあるような、曇った硝子ではない、完全に透明な、極度に薄い透明の向うにあって、紅(あか)い色でも、緑の色でも、みな上に綺麗な透明を、被(かぶ)っている。ちょうど自転車や自転車に附いている反射鏡(バック・ミラア)に映る草原や紅い煉瓦(れんが)の街のように、世にも綺麗で、夢かと思うように恍惚(うっとり)するものなのだ。(6〜7ページ)

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